お久しぶりです。
ハロウィーンたけなわの10月も終わりを迎え、世はアメリカ大統領選大詰め。学術会議がどうとか岡村が結婚してたとか、相変わらずな日本のマスコミをよそに、世界は刻々と審判の時へと向かっている様相ですが、相変わらず私はマイペースです。
死ぬときゃあ死ぬんだ。
そんなベトナムの10月は、私も先般訪れた中部地方を中心に、例年に無い豪雨&台風被害を記録しています。
この記事を書いている現在、まさに台風9号モラヴェが、弱り目のベトナム中部をまたしても直撃。
ニンニクで有名なリーソン島は民家の3分の2が破損したという程です。
小さいけど美味しい。薄皮も食べられる。
私のYouTubeでご覧になった方はわかりましょうが、古都(と言っても歴史は100年ちょっとしかない)フエでは9月の台風で既に街路樹がなぎ倒され、さながらスムースクリミナルと言った様相。
今回の台風9号はそれよりも南方、ダナンの少し南方向をまっすぐ西進した形になります。
ちなみにこっちは去年の台風5号。時機も進路もソックリだ。
そんなベトナム中部、前述の通りに台風銀座であり、フエを流れる香江の上流をたどると、日本のODAバラマキ事業で建設されたベトナム中部最大のダムがあります。今回見てきましたがオマケ程度の発電設備があり、治水目的である事が伺える。
大きな気候変動や大陸移動がない限りは、歴代ベトナム中部を支配して来たチャンパ国は台風との戦いであったはず。そしてそんなに洪水が頻繁に起きるというのにフエに都を作ったグエン朝、バカだったのか?そんな疑問が湧いてきますな。
日本人町も残る、川沿いの静かな世界遺産都市ホイアンから川を遡上し、興味深いシルエットの山々の山あいに建てられたミーソン遺跡。チャンパ王朝の聖地とされています。
ベトナム中部を支配していたチャンパ王朝、その民であるチャム人は現在もベトナム54民族を構成しており、伝統文化を今に残している。
意外かもしれませんが、あの広い中国でさえ認定されている民族集団は55と言われているのに、日本より少し小さいベトナムに、54もの民族が住んでいるのです。
朱印船貿易の時代にも日本や中国と交易し、琉球国とは親密な関係であったとか。チャンパで取れる良質な沈香は正倉院にも残っており、なんと家康が沈香を要求したという記録が残っているほど?さらには眷属がアチェ(インドネシア西方)に流れ着いて大国を開き、マラッカ海峡を我が物にせんとしていた?とも言われている、海洋大国であった訳です。
現在も冷凍技術向上により、日本に輸出されるマグロが多くとれ、良港も多い。
ホイアン博物館は相当な見応えでした。疲れたら風の通る屋上でホイアン市街を眺めながら、持参した飲み物で一服してみてはいかが?売店等は無い。なんなら電気も着けてくれないしチケットも買わずに入れた。コロナの影響でどこもやる気ゼロだ!
そんなベトナム中部、のミーソン遺跡。1700年も前に作られたヒンドゥー聖地に、私もワンコに導かれつつ、暑い中を調査してまいりましたよ。
ミーソン遺跡パート1 https://youtu.be/u6iPT6MDs6Y
2 https://youtu.be/HFfo38RGMDA
3 https://youtu.be/JjiQKqzcl40
画質が劣悪で大変恐縮。MacBookの動画編集ソフトがダメになりまして、せっかく編集が終わったと思ったのにYouTubeにアップロードはもちろん端末に保存もできない。万策尽きたかと思ったのに何故か他の有料動画サイト(VIMEO)にはアップロードできる…露骨な利益誘導の犠牲に会いました。
漆喰やアスファルト等を使わず、レンガを積み上げただけで作られたこの見事な建築が、果たして数百年間うち捨てられていたにも関らず、こうまで偉容を保ち続ける事など、果たしてできるのだろうか??
アンコールワットのあるカンボジアには台風はほぼ来ないという事なのであちらは納得できます。そしてアンコールの方は、熱帯よろしく木が建物を飲み込まんばかりに侵食しているイメージが強いかと存じます。
もちろんアンコール遺跡全てがこうなっている訳ではないですが、比べて見た時にミーソンは、これと言った巨樹は皆無でした。
陰陽道の見地からすると、木とは気であり、日本の神社よろしく、気が大地より沸き上がる場所では、木は気の流れに沿って伸びるものです。
なれば、聖地とされているミーソンならどこかに大木の一本、切り株でもと思って見ても、見事に皆無なのである。
というより、数百年忘れ去られていたと言われる、ほぼ原生林というはずの周辺の植生は、そのへん近所の裏山に入った風景とほぼ変わらないのだ。
だとしたら、大木が伸びきらないほどに頻繁に台風が来るんであれば、尚更あの保存状態は不可解なわけです。米軍が頑張って爆撃してようやくこの程度なのである。
むしろ、ちゃんと空爆やりましたよという言い訳程度、大切な所を上手く外しているようにも見える。ベトコンゲリラの巣窟と聞いてるはずなのにだ。
北朝鮮軍が徒手及び戦車で、丁寧に韓国の山寺を悉く壊滅させた徹底さに比べ、この恩情(?)は謎。
私の考察だとミーソン遺跡は、これまたいつものパターンで、日本から持って来られた物、それもかなり近代になってからという推論が成り立つ。
エジプトのピラミッド然り、韓国の王陵然り。
平安京は794年に作られたと、日本で教育を受けた方なら信じて疑わない所でしょうが、実は考古学上、発掘の成果として、あの時代あの場所に都があったなどという客観的なデータは一つも無いのです。もちろん奈良にも。
立派な古墳があるじゃないかと言っても、確認されているだけでも古墳の数は関東が圧倒的。古墳と認められていない(認めるわけにいかない^^;)仁徳級の巨大古墳は、東北や関東にゴマンとあります。
何より、日本の正史と言われる記紀には、あれだけ目立つはずの富士山の表記が皆無なのです。さらにいえば、ヤマトタケルの東征には伊豆半島がまるで無いかのように、焼津から先のルートには違和感しか無い。
輪をかけて九州各地に残る歴代天皇の痕跡を残す地名や言い伝え、どう見ても古墳なのに絶対に発掘されない小山達。炭素同位体の調査結果を悉く無視して大和朝廷機内説は常識であるかのように嘯く学者たち…
つまり、平安京も当時あそこになく、後代になって主に九州から持ってきたもの。それもその土地ごと、というのが真相らしいですねハイ。
世界を裏で操る京都皇統にとって、京都に皇居がずっとあった!ということにしておく理由がどうもあるようです。
そう聞くと変に腑に落ちるものがありまして。個人的に京都出身者との邂逅、及び京都で接した人民達に良い印象は皆無であり、皆どうも高飛車だったり変人だったり(←どの口が言うのか)。
それが1000年王都という虚飾からくる偽りの自信からくる、不安の裏返しであると理解すると、なるほどさもありなん、と臓腑にスルッとまぁるく納まりまっせ。
さらにはこの祭壇?の地下から、中国風の衣装を着た方がお出になられたとは私の師匠による霊視の結果。
現在、我々神様救助隊(と言っても私もメインストリームからは外されてしまいましたが…)は、以前までの審神者という調査手段を卒業し、現実としての気の変化、及び霊視、霊触を”参考にしつつ”、文献や現地の聞き込み等、事実ベースに基づいた調査を行っています。
審神者、特に耳で聞く形での神降ろしには危険が常に伴い、邪念や欲望、負の想念により、簡単に悪魔を降ろしてしまうものなのです。
今年の8月12日前後には、それを痛切に実感しました…
さておきどうして中国なのか?
折しも私の育った静岡県西部は三国志の舞台であり、結局中国史も日本で存在した歴史を中国に輸出しただけの事。中原統一だって、久留米の秦さんチの家内騒動を大国の内乱規模にまでスケールアップした、白髪3千丈も真っ青なコピーアンド拡大解釈である訳です。浜松には久留女木という地名もあります。
そして三国志の魏に相当する遠州の東側エリアというと、革命家のファンボイチャウと縁の深い袋井市がある訳です。
YOUTUBEファンボイチャウ記念館レポート↑
そして静岡市と姉妹都市であるフエ市といえば、チャンパ王朝最初期の都が2世紀にフエにあったとされ、さらに以前には中国により日南郡が置かれていたとされるわけで、否応なく九州をイメージさせる。
折しも温暖な静岡。沖縄、宮崎に続いて第3位という温暖さである静岡では近年、パパイヤやマンゴーといった熱帯果実の栽培が発展している。
宮崎は私にとっても縁が浅からず、何に憑かれたのかというほど頻繁に、何をするでもなく訪れた地でありました。鵜戸神宮や青島神社を巡り、チーズ饅頭を食べ比べ、飫肥城で矢を射り、油津の海で素潜り漁をしたものである。
まさに今思うと、かつて前世で師匠と共に、ダナンの海を潜り何かを探していたという記憶が、私を油津の海へと誘ったのではと思えてならない。
お隣さんのはずの関東と九州をこれだけ引き離し、富士山を出現させ、東北を僻地へと追いやった古の術者達の空間操作の力は途方も無いものがある。
果たして静岡は本当はどこだったのか?
静岡空港の南側にはかつて油田があったし、ベトナム南部も原油が産出される。新潟こと越の国では天智天皇の時代には燃ゆる水、燃ゆる土が産出され献上していたとな。
松平を乗っ取った現在にも続く徳川家も本当の出自は新潟だというし、あんがいベトナム⇄静岡⇄新潟と、さらにフォッサマグナにフエの鳴き砂ビーチに、色々リンクしてくる予感を抱かせてくれる。
本当の日本地図が気になるばかり。そして9という番号をつけられた今回の台風、果たして神のみわざか、それとも…
遠く越の国より思う。本当は近いのかもしれんが…