前回からの続きになります↓
http://yoshikawahiko.hatenablog.com/entry/2019/11/04/175130
さて、今回の韓国も早や4日目。現在私がいるのは韓国南西部のチョンジュ市。
"食は全州にあり"という言葉があるように、韓国の食文化をチョンジュが支えてきた理由は、ひとえに韓国随一の広さをほこる肥沃な湖南平野にあるでしょう。
今日はというと弥勒寺址(ミルクサジ)という有名な寺跡に行くことに。
名前だけはよく聞くが、なんだかんだ行く機会が無かった。2015年に世界遺産にも指定されたことだし、名前も気になってレッツごー。
広大な湖南平野をひたはしる。
韓国南部は中央に小白山脈が南北に貫き、東を嶺南地方、西を湖南地方と呼びます。山がちな韓国で唯一と言ってよいほどの平野部が広がり、西海に面したクンサン(郡群山)は主にコメ等を植民地時代より日本へ輸出する集積地として栄え、イクサン(益山)市は有史以前より良質な宝石を産出し、韓国唯一の宝石博物館はなかなかの見応えで、かつて訪れました。
しかし湖南というぐらいだから大きな湖があるんじゃと思ったらそれらしいものは無い。
定説では、朝鮮実録や三国遺史に登場するビョッコルチェ碧骨堤がそれだとされるhttps://ko.wikipedia.org/wiki/벽골제(韓国語ウィキ)。
それだけ大きな湖がどうして今は無いのかというと、後述する学芸員の言によると、日本軍が埋めてしまい、河もつけかえたのだという。
半島の古墳つぶしは日本陸軍の重要マターであったし、まあかたの海を埋め立てるほどの日本の治水事業が韓国でも行われたという点では興味深い。また嶺南地方といえば日本では福井県だが、加羅から渡来したツヌガノアラシトを由来にもつ敦賀との関係は?興味がつきないところである。
イクサン市に入り、湖南平野のヘリまで到達、見えてきた山に何かアピールを感じる。
地図を見るとワングンリ(王宮里)やグンマミョン(金馬面)という地割を見てアレっと感じる。
馬韓とは三国時代以前、原三国時代と呼ばれる時代区分、現在の百済エリアを支配していたとされる連合国。新羅エリアは辰韓、任那は弁韓。
なかなか大げさに整備された公園になっており、馬韓ミュージアムが山すそにそびえる。出迎えニャンコさんへの挨拶もそこそこに、館内へ入ると大きな絵が目をひく
鹿の角をつけた中性的な指導者?から感じるイメージはシャーマンそのもの。
歴史からシャーマンの気配が消された韓国において、しかも歴史がメインテーマの博物館においては非常に異質な存在。絵について何の説明も無いのもまた。
金に馬とかいてグンマと読むこの地域、まさか群馬県の事を指しているのでは?本当の伊勢とは伊勢崎の事なのか???
朝鮮史に明るい人なら興味深い記述である。箕準とは箕氏朝鮮の最後の王とされている人物であり、衛満は漢の劉邦の腹心である盧綰(ろわん)の部下である。
赤龍王(本宮ひろ志著)を読んで育った私にとっても、あのロワンが謀反の疑いをかけられるなんて、しかもその眷属が朝鮮半島に流れ着くなんてドラマチックだなぁと、古朝鮮史を調べた時に思ったものだが…
どうも異国という気がしない出土品に囲まれ、キリがないので公園を散策してみる。次回時間がある時にゆっくり見よう。
丘の方に上って俯瞰してみると
さらに上の方に行くと
百済のテーマパーク(?)らしく、百済王子と新羅の姫との恋を描いたソドンヨ(薯童謡)のストーリーを随所に盛り込んだオブジェ達がひしめく公園内は、たまにウォーキングをするオバサンが来る程度。
新羅=出雲、百済(高句麗とは同族)=天神、任那=天孫(あめみま)
と考えると、出雲と天神の間で7世紀の頃に皇統の交代があったことを示唆しているようにも思える。
韓国の大河ドラマにもなったソドンヨは、大河ドラマ史上はじめて三国時代を描いたというのもあって、チェックしなきゃとは思うんですが冗長すぎて韓国ドラマは苦役。なにより成形大国なので女優の顔が区別できない&覚えられない。役作りの一環だとしたらたいした根性だが…
さて、メインターゲットである弥勒寺へ急ぐも、貯水池の反対側に張り巡らされていた金網が気になっていたのだが、どこからか威勢の良い音楽が聞こえる。なんだと思い敷地方向をみると、ペガサスのマーク。
そう、歴史に思いを馳せるのどかな村は、実は韓国陸軍特殊戦司令部、略して特戦司(トゥッチョンサ)隷下第7空挺旅団、天馬部隊の基地であったのだ。
特戦司といえば地獄の訓練で名高く、飲みの席で特戦司出身者と海兵隊出身者(韓国の海兵隊は独立しておらず海軍隷下)が出会えばまず喧嘩になると言われているほど仲が悪く荒っぽい連中といわれています。
虐殺の影には特戦司ありと見て問題なく、光州民主化運動やチリサンゲリラ掃討、済州島炙り出しといった虐殺の影には必ずというほど暗躍しており、実に朝鮮戦争を超える人数の犠牲者が戦後韓国人同士の手によって生み出されたとされていますが、本当に韓国人かどうかも疑わしいものだ。語学に長けた隊員は富士基地の外人部隊に編入してますねこれは。
という事はこの下は間違いなく要塞化&貯水池はアレの冷却水ね…
くわばらくわばら、ということで、弥勒寺址到着(近い)。
ついてまず感じたのは、
あれ?大宰府!?
でした。
だだっ広いスケール感といい、後ろの山といい、大宰府政庁跡ソックリではないか。
復元された九層石塔と幢竿支柱
見応えのある展示館をぐるっと見て回り、そろそろ出ようかという所で、妙齢の学芸員の方につかまり、いろいろと面白い話を聞く。やはり展示を見るだけではわからんものだ。
まず、 そもそもこの寺が建てられたのも先ほどのソドンヨの主人公である百済の武王、その王妃である沙宅王后が、(ソドンヨにおいて結ばれた善花公主ではないとされる)武王の長生を願い、仏舎利を安置し建立されたというもの。
建立されたのは639年。非常に覚えやすいね!!
その根拠となる発掘の歴史は浅く、2009年まで待つ事になる。
打ち捨てられた石塔が、一人さびしく、何百年も…
14世紀末に李氏朝鮮が半島を支配するまでの三国時代→新羅→高麗の時代は仏教文化の時代である。
朝鮮王朝の支配下、仏教が排斥された時代にあっても民衆の崇敬を集め続けた弥勒寺は、 日本による朝鮮出兵以降、歴史からパタッと姿を消してしまう。
そして周知のとおり1910年に国権を日本に奪われ、1915年、忘れ去られたボロボロの石塔が日本政府の指示によりコンクリートで補修される。日本政府は仏舎利の存在を知っていて、目印のために保存したのか?
この補修事業については韓国内でも評価が分かれるところだが、そもそも何故日本はこの塔を丁寧にも補修保存したのか。そして豊臣軍に蹂躙された湖南平野の民たちは、なぜ弥勒寺を再興しようとしなかったのか??
考えられる理由としては
①普通に、寺院建立の制限下にあったので再興が許されなかった。朝鮮政府も無視した。
②そもそもこの寺は仏教ではなく原始キリスト教の寺院であり、朝鮮出兵によりその多くが殺戮or日本に拉致され、事情を知るものが皆無となった(戦国時代の多くの戦闘は、原始キリスト教者の殺戮の隠れ蓑。堀川の戦いは古いキリスト者である井伊家の抹殺が目的)
③初めからここには無かった。1915年前後に日本のどこかから陸軍が転送した。
…月並みな発想しか出てこない自分が情けない。
しかしこの転送という説はあながち素っ頓狂なものでもなく、この寺院があったところにはかつて大きな池があったという。それを知命法師が神通力により山を削り池を埋め、その地に寺を建立したという伝説がある以上、事実は概ねそれを上回る真相があるのがいつものパターン💦。
神霊話やオカルト話が権力者によって蓋をされないのは、人の意識に残る必要があるため。人が事実だと認識して初めて、存在が確かなものになる。
この話も、前述のビョッコルチェが埋め立てられたという話もこの学芸員から聞いたものだが、かつてはビョッコルチェへと通じる川が弥勒寺周辺まで流れており、船で近くまでつけられたのだという。今は見る影もない。
この山といい伽藍といい、近くに御笠川まで流れていたらいよいよ大宰府ではないか。
仏舎利を入れていた舎利荘厳具はこのように石塔一階に安置されていたというのだが、
石塔一階の中央には縦横75センチ、高さ1メートルの心柱石があり、穿たれた穴には舎利が安置された経緯を記した奉迎記とガラスの玉で満たされており、舎利入れはガラス玉にうもれていた(写真上)。
国宝1991号、弥勒寺舎利荘厳具。
米粒大の仏舎利をまずガラスの瓶にいれ、それをガラス玉で満たした純金製の壺に入れる。それをさらにガラス玉で満たした金銅製の壺に入れ、ガラス玉と奉迎記とともに心柱石に安置するという非常にかしこまったもの。年代の特定は奉迎記に記された己亥年という表記を根拠とする。おや、偶然にも今年2019年も己亥年じゃないか!!
多分に、当時めずらしかったガラス(鉛ガラス)が使用されている点が興味を引く。寺の中にガラスの工房も発掘され、石塔周辺からもガラスの破片が多量に出土しており、その成分が福岡の宮地嶽古墳のものと成分が一致していることから、日本へも輸出していたのだろうと言われているが...
仏舎利の安置方式も法隆寺五重塔と類似するというし、ここにも日本の影が!
さらには武王が葬られたとされるイクサン市ワングン(王宮)里のサンルン(双陵)には、高野山のコウヤマキ製の木棺が出たというから驚きである。
高野山に宮地嶽、偶然にしてはちょっとアレすぎる。
いくら腐食に強く優れているとはいえ、外国製の木材で王の棺を作るものだろうか??現在の国境意識では理解が難しくなる。
ちなみにワングンリの五重石塔から発掘された舎利入れは国宝123号に指定されている。
中国史マニアにも媚びを売っておこう。
元朝の最後の皇帝であるトゴン・テムールの第二皇后である奇皇后が、ここに縁があるという。
奇皇后の母方がグンマが故地だという事から、寵愛した元皇帝の命によりグンマ郡から益州へと昇格したらしい。
奇皇后といえば、息子のアユルシリダラは朱元璋に大都を奪われたハーン。
いっぽうそのころ日本は南北朝時代の真っ最中。日本に騒乱が起きるとき、やけにアジアにも権力の交代がみられますねぇ。
元寇のイメージから、当時高麗は完全に元に蹂躙され日本征服の先兵にされたと思う方もいるかもしれないがそう単純ではなさそうだ。
記録によると当時の元では高麗の女性を娶る事が名家の条件であり、流行りの服装から、兵士まで高麗の詩歌をこぞって読んだと言われるほどの、いうなれば高麗版韓流ブームが14世紀中国に巻き起こっていたというhttp://news.khan.co.kr/kh_news/khan_art_view.html?art_id=201108102151235
(またもやイギファン氏の受け売り)。新羅とペルシアの王族間で婚姻関係が結ばれたりだとか、現在の地理感覚で歴史を見ていては、けっして真実は見えてきません。
中国、イランにまで飛び火して収集がつかなくなってしまいました(;´∀`)
4日目はまだ昼食もとっておらず、半日だけでこのボリューム!!
金馬、群馬…天馬部隊がエネルギーにしているのは、どんな馬かな?
ソドンヨも奇皇后も韓国ドラマになっていますので、興味を持たれた方は見てみたらいかがでしょうか。
というか私は見る余裕ないので要点だけ教えてほしい(ワガママ)。
とりあえずこの辺で中編は切り上げ、蛇足の後編へと続きます🕺
http://yoshikawahiko.hatenablog.com/entry/2019/11/11/204439(後編)