はじまりは数年前、滋賀県某地の歴史を紐解くツアー旅行に参加した際のことです。
知り合いの歴史専門家達と旧交を温めつつも、一般に知られていないディープな歴史を垣間見られる、非常に有益な時間を過ごせたものです。
その中で、ベトナムに住んでいた私に対し、歴史の専門家の方が聞いてきたのです。
『赤フン先生、doc cuocというベトナムの神様をご存知ですか?片足の神様らしいんですが』
語学の勉強がてら小学校歴史の教科書等は目を通しており、ベトナムの神話も多少知っていましたがこれには初耳。
字面から察するに独脚か?という所までは察しがつきました。つづけてその方は『これは日本に入ってきて久延彦(くえびこ)になったモデルだと思いますよ!』と続けるのです。
久延彦…
私も聞いたことがあるようなないような。
調べていくと、大国主の国作りの段で、スクナビコナを見出した、何でも知っている神様とのこと。
日本の神様の源流がベトナムに…!?
ビビっと電流が走った私は、以来取り憑かれたように久延彦研究に乗り出すことになりました。
まず記紀の記述を見てみると、日本書紀には久延毘古の姿は見えず、古事記に
これ大国主神、出雲のみほのみさきに坐す時に、波の穂より天の羅摩船(かがみのふね)乗りて、鵝(ひむし)の皮をうちはぎに剥ぎて、衣服にして、よりくる神有り。
その名を問はすれども答えず。
また、みともの諸神に問はすれども皆知らずとまをしき。
ここに、多邇具久(たにぐく)まをさく、こはは久延毘古必ず知らむ。即ち、久延毘古を召して問はすときにまをしき、こは神産巣日神の御子、少彦名の神なりと
(古事記第八段 宝剣出現章 読み下しは拙文ゆえ悪しからず)
とあり、ホツマツタエには
クシギネアワノ ササザキデ
カカミノフネニ ノリクルヲ
トエドコタエズ クヱヒコガ
カンミムスビノ チヰモコノ
ヲシヱノユビヲ モレオツル
スクナヒコナハ コレトイフ
(ホツマツタエ9アヤ)
とあるように、共通するのは誰も知らないスクナヒコナの事を唯一知っていたのは久延毘古だけだったという点です。
また、古事記には続けて久延毘古は山田のそほどなりとあり、そほどとは濡つ(そぼつ)の古語から転じて濡れるもの、つまり雨ざらしの田んぼのカカシであるというように解釈されています。
古今和歌集には
あしびきの 山田のそほづ おのれさへ 我を欲してふ うれはしきこと(詠み人知らず)
と詠まれています。
あしびきの(山の枕詞)山の田のカカシよ、お前まで私を欲しいというのか、嘆かわしい(意味)
絶世の美女でしょうか、カカシにまで求婚される身分を自嘲気味に自慢しているのでしょうか。なんともカカシが可哀想ですね。
久延もまた崩(く)えるからきているとされているように、田畑で朽ちていくものと見做されています。
しかし、久延毘古を紹介した多邇具久とセットで、田んぼのカカシと田んぼに住むカエル、しかしカカシは直立不動の姿で鳥を遠ざけ、魔を祓う。カエルは地を全て埋め尽くすほどに繁殖しているということから、全てを知るものとして田の神信仰へと結びつく。
ところでベトナム側のdoc cuoc(獨脚)の伝承には、斧で体を2つに裂いたため、片目片足となったとあります。
ここで、石川県中能登町の久氐比古神社 ( くてひこじんじゃ )に久延彦と共に祀られている天目一箇神(あめのまひとつのかみ)とも繋がってきます。天目一箇神は鍛治の神として知られており、同じく鍛冶の神であるキュクロプスも単眼で知られる。
2022年7月来訪。モーゼパークと併せてどうぞ
ベトナム語では độc cướcと書き、漢字では独脚とある通り一本足の神様なのですが、そのオリジンをお伝えしましょう。
昔、鼻の赤い鬼達がSAMSON(タインホア省)の海に来て、人々を困らせていた。
ある子供には父親が居なかったが、産まれるとすぐに巨人となって鬼を退治しに行った。
海にいる鬼達を追い払うと、鬼は上陸して人々を困らせた。
そのため巨人は斧で体を半分に分け、片方はSAMSONの島の頂きに、片方は筏の上で漁師たちを守った。
鬼達は島にも海にも巨人の姿がある事に恐れ逃げ出した。
そうして、一本脚を意味するDOC CUOCと呼ばれるようになった。
SAMSONの村人達はその恩を忘れぬよう、巨人の足跡があった場所に祠を建立した
津波で打ち上げられた女性が命と引き換えに産み落とした子であるとか、玉皇大帝から独脚神の名を賜ったとか様々な言い伝えがありますが、それもそのはずでベトナム北中部の海岸地帯を中心に300以上の祠堂で祀られている英雄です。
ベトナム人みんなが知っているというレベルではありませんが、北中部の人ならそれなりに知名度のある神様として、最も有名なタインホア市サムソンのDEN(神社)DOC CUOUでは盛大なお祭りも行われ、領土を守った英雄を今に伝えています。アメリカに打ち勝ったベトナム人の気骨は古くDOC CUOCから続く、いやもっと古く徴姉妹から2千年続く独立独歩の遺伝子なのかも知れませんね。
まぁ南部の人達はアメリカ支配のままが良かったと、みんな言いますけどね…
さて、一本足の神様をカカシ=久延毘古に結びつけるのはいささか短慮ではないかと思われてしまいそうですが、このタインホアという地が曲者です。
ベトナム北中部というと治安もあまりよろしくなく、方言がバカ多い事、そして聞き取りづらいのが特徴です。
ハノイ、サイゴンはわかりますね。フエも古都として有名な中部の都市です。
下の段の vinh、thanh chuong、ha tinhというのはどれも北中部の都市なのですが、全部発音が違う!!
概して技能実習生たちも、貧しいこうした北中部出身の子たちが多く、南部(ホーチミン)で勉強した私にとっては難敵。ちょっと大学で若い人達と普通に話せるやん、俺すげぇ!なんて思っていては恥をかきます。みんなこっちが外国人でベトナム語が弱いことを考慮して喋っていたのかという事に改めて愕然とするのです。
説明は省きますが、狭い地域で言葉が全然違うというのは、歴史が深い事を示しています。
日本も人のことは言えませんが、千葉と茨城も川ひとつ渡ったら、言葉が全然違うように。
そんなタインホアは女傑趙氏貞が活躍した地であり、なんと没年が卑弥呼と同じ248年。
ホーチミン主席も Vinhの出身です。
そんなタインホアという地からまっすぐ東へ行くと、中国は海南島へと行き渡ります。
かつて珠崖(しゅがい)、儋耳(たんじ)と言う郡が前漢によって紀元前110年に整備されたのが現在の海南島であるとされ、その習俗は倭人と同じとされています。
それまで趙陀(ちょうだ)が北部ベトナムから現在の広東省までを統治していたのが、これ以降1000年中華王朝に支配される第一次北属期が始まります。
さらに海南島の北、広西省チワン族自治区には百済郷と言う地名が現在もあり、百済がかつて外地に整備した擔魯のうちの一つでは見なされています。
百済は多羅国の後継とされ、言ってみれば倭人の国だと私は考えています。
(参考:拙ブログ過去記事)
いつ書くんだと言われ続けて早一年の久延彦シリーズですが、この辺で形にしないといけないと思い、乱文ながら記念すべきPART1をお送りしました。
それというのもまた、最近は有名人が立て続けにお亡くなりになっていますが、そのうちの1人がどうもアレらしいので、ブログを書くキッカケにさせていただきました。
芸能にはほぼ興味がありませんが、仕事柄テレビをつけることが多く、報道を見れば見たで『それ全国放送でいう事か?』『日本語おかしいよね?』というようなニュースばかり。提灯記事はどうかと見ても12月8日開催!とか、11月9日まで!!と言ったヒネリも何もない暗号だらけ。
もう江戸時代に戻って百姓やりてぇなぁとすら思いますが、足りないなりにかき集めた知識を稚拙なコンテキストに載せて書き連ねていけば、誰か『そうかもしれんね』と思ってくれるかもしれません。私に残された生きる意味はもうこれしか無いのであった。