この記事は2022年8月27日に配信したYOUTUBE動画 ”百済は大帝国だったのか…?そして少女神と魔女” にて言及したソドン(薯童)について簡潔にまとめたものとなります。
また、以前の記事で薯童にまつわる地域の旅行記がありますので、そちらも参照いただけると雰囲気をつかめるかと思いますよ↓
コリアウォッチVOL5。朝鮮三国時代に日本を見た!?中編。 - (元)情報本部自衛官が真相を語る?
ソドン서동とは
薯の童と書く通り、山芋を掘って生計を立てていた古代韓国は百済の男。それが百済の王にまで上り詰めるという、韓国版逆シンデレラストーリー。
1000年を超える時を経ても鄕歌として現代にまで伝わるその伝説は、近年にも同タイトルでドラマ化されるほど。
一見するとありえないそのストーリーを語り継ぐその理由は、また日本各地の言い伝えとの類似性は何故なのか
あらすじ
百済、金馬(グンマ)村…現在の益山市に、山芋を掘る男がひとり。人々からはそのまま薯童と呼ばれていた。
ある日、時の新羅の王である眞平と、王妃摩耶夫人との間に生まれた善花公主は美貌絶佳にしてお年頃であると聞きつけた薯童は、山芋を山ほど掘って新羅へと参じる。
善花公主を見かけた薯童はたちまち虜になり、計を案じた。
道行く子どもたちに山芋を渡し、こんな面白い歌がある、これを大いに歌って遊びなさいと言った。
善化公主主隱
(선화공주주은)
他密只嫁良置古
(타밀지가량치고)
薯童房乙
(서동방을)
夜矣夘乙抱遣去如
(야의묘을포견거여)
(薯童謡)
...原文を当時の新羅語で読み下した場合、最後の一文の解釈が随分変わってしまう。
夘という字を묘, 現在の몰래として読めば夜にこっそりと (ソドンを)抱えて行くになるし、夘を卵の誤字だとすると夜に卵を抱えて行く
となる。
つまり日本語の意味としては
善花公主は人目を忍んで情を交わし、薯童の部屋に
夜にこっそり抱えて行くもしくは夜に卵を抱えて行く
となる。抱遣去如は性行為的な意味の抱くではなく、まさに抱える、持ち運ぶというニュアンスであるため、善花公主が男の薯童を抱えるというのは違和感がある。とはいえ卵を持って行くというのも何を意味しているのかとして研究家たちの論争は尽きない。
ともかくエサで釣って歌を吹き込んだ薯童の企み通り、新羅の王都中に善花公主の浮名がこだまする。
程なく眞平王の耳に入ると、あわれ善花は勘当され、なんやかやして薯童とめでたく結ばれる。
善花は家を追い出された時に持たされた金塊で何とか生計を立てていたが、薯童はあの黄色い塊がそんなに価値のある物だったのかと、善花を山に連れて行ったところ、金塊がそこかしこに転がっているではないか。
かくして金を売ってお金持ちになった薯童は百済の王様になり、金馬村に弥勒寺という百済一大きいお寺を建てましたとさ…
さてここまで聞いて日本の言い伝えに詳しい人だったら、
熊本では疋野長者
大分では真名野長者
と似ているな、と思われる事でしょう。
・姫が都から田舎へ行き、男と結ばれる
・男の故郷では金が山ほどとれる
・人望もあり成功する
という共通点。
この炭焼き長者譚は日本全国にあり、中国の少数民族たちにも類例が何十と見られるという。
しかし熊本と大分の長者伝説に通じているのは百済との縁が強いという点。
大分は三重町玉田の長者伝説を伝える古文書の一つ内山記には、百済の蓮乗法師や、炭焼きの前世が百済の僧侶だったりとか、一見すると無理矢理感すらあるほどの百済との結びつき。
熊本の長者伝説が残る玉名市といえば見事に百済式の江田船山古墳。
日本百済関係史を学ぶ上では避けては通れない古墳があり、そのまま川を遡上すると、またも大百済エリアの山鹿、菊池へと至る。
熊本は玉名
大分では玉田。
タマナという地名は百済がかつて外地に設置した檐魯담로に由来するという説がある。
現代ハングル読みではDAM LOが鼻音化して ダムノ に似た発音となるが、古代語は概してゆっくり発音する傾向があるため、タムル、タマラといった発音だった可能性は高い。
何故なら古い済州島の呼称を耽羅と言い、日本語読みでもタンラ、現代ハングル読みでもタムナとなる。さらに屯羅、耽牟羅という表記も見られる。
屯という字はタムロと読むし、百済が駐屯した拠点にそうした地名をつけていたという百済研究家を笑い飛ばせる人は世間知らずである。
あの大帝国モンゴルのハーンが妻に選んだのも、まさに金馬村出身の高麗人であったし、中世までのあのエリアは世界の中心的な位置にあった可能性が否定できない。
ただそれが現在の大韓民国の南西部かと言われると、さぁそれはどうかな
参考
乾馬國は後の金馬村を中心とした馬韓連合の主要国と見られ、伽耶と接している点にも注目。大耶城の戦いは朝鮮三国時代の大きなターニングポイント
大耶城の周囲は多羅国に比定され、勾玉が大量に出土することから名付けられた大古墳群の玉田(オクチョン)。
外地に22もの檐魯を置き、その版図は遼西、山東半島に留まらず、中国を飛び越え東南アジアにも広がったとも言われる百済。それも22檐魯は漢城(現ソウル)を放棄し熊津(オンジン)に遷都した際の、いわゆる衰退期における梁書百済伝に見られる記録であり、漢城百済時代には50以上もの檐路があったであろうと推定される。
かたや儋耳(たんじ)・珠崖(しゅがい)の倭人伝説の残る海南島。その真西には久延毘古そっくりな伝説が残るベトナムのタインホア。