シリーズ 李王家と皇室

本日7月16日は正統李王家の最後の血統である李玖(이구イ・グ り・きゅう)殿下の命日です。

 

それだけをキッカケに突如スタートした本シリーズですが、人様にご高説できるほどの知識や研究成果があるわけではありません。ただこれから終戦記念日にかけて、李王家にまつわるエピソードが少なくないため、自分への努力目標も兼ね、無い頭を振り絞ってまとめていきたいと思います。

 

 

 

そもそも李王家が残っていたの??

f:id:YoshihikoK:20180716235530j:plain

御真影=李玖殿下

1910年の日韓併合以後、当時の大韓帝国は主権を失い、朝鮮半島及び朝鮮民族は収奪と搾取と支配の限りを日帝により加えられた…

と聞いて育った方が多いことと思いますが、当時半島の統治者として君臨していた李氏からなる王家は、日本による庇護を受け、日本の皇族に準じた待遇を受けたと言われています。

 

右翼がよく朝鮮半島支配の正当化の一つとして、一般庶民の出でも陸軍中将まで昇進した朝鮮人もいる、だから朝鮮人差別は無かったという論調がありますが、それについてはまた別の機会に。

 

2005年7月16日に御隠れになった李玖殿下は、産まれも没したのも東京は赤坂、かつての赤坂プリンスホテルのあった場所とされています。そう、プリンスとは李王家の王世子の事を指していたのです。赤坂について言えば。

新宿の新大久保の影に隠れて目立ちませんが、赤坂は元祖コリアンタウンと言える地域なのです。

テレビ局が近い関係もあってか、赤坂の高級韓国クラブは座るだけで三万円からという恐ろしい世界で、韓国人ホステス向けに韓国人が運営している美容室も多数。私の行きつけの美容室もクラブに出勤するおねーさまが客層の殆どを占め、男性客それも日本人というのは珍しがられます。

 

生い立ち

1931年に赤坂の東京李王邸に産まれた李玖殿下は、伏見宮明王と同学年(1ヶ月ほどしか誕生日が変わらない)であり、同時期にマサチューセッツ工科大学に留学したと言われ、皇室との深い結びつきを感じさせます。

また生母は梨本宮方子(李方子)であり、今上天皇と同じく久邇宮朝彦親王曽祖父に持つそうです。

f:id:YoshihikoK:20180717000828p:plain

旧李王家邸 グーグルマップより拝借。 ここ紀尾井町の町名の由来は、州徳川家、張徳川家、伊家のお屋敷があった事に由来するそうです。小岩井農場じゃあるまいし

 

言われが確かなら、終戦を迎えたのは若干13歳。

終戦を迎え、多くの皇族が臣籍降下し一般人となってゆく中、日本の庇護が無くなったであろう李王家は韓国に帰らされたのではと思うのが普通だと思いますが、歴史は逆で

民衆の李王家への求心力を恐れた韓国初代大統領の李承晩の暗躍により、李王家の一族は朝鮮の地を踏む事が長らく許されなかった。そうです

封建主義的な君主制への逆行を防いだ…

朝鮮500年という血統を断絶させ、民族の団結を妨害した…

…等と評価の別れるところではありますが

 

かくしてそのまま日本に住むこととなった李玖殿下は、学習院を卒業し前述の通りアメリカMITへ留学。

その後も韓国への帰国が許されたり、そうかと思ったら日本に住んだり、また韓国に戻ったりされたようですが、最後は赤坂の旧李王家邸にて倒れ、急性心不全で世を去ったとされています。

 

とかく高貴な方々に関しては真偽がはっきりとしないもので、韓国の報道では渋谷区の小さなアパートで亡くなっただとか、晩年は日本の女性占い師と住んでいたとか、虚実が錯綜していますが日本で亡くなったのは間違いなさそうです。

 

2005年といえば竹島の日の制定や教科書問題等に揺れた、今思えば日本の右傾化のターニングポイントとも言える年でした。私も大学生になったばかりで、同級生と国際問題について話し合う機会も増えてそう感じただけかもしれませんが。

またロンドン同時多発テロや、121名の死者を出したヘリオス航空522便墜落事故も記憶に新しく、13年という歳月のいかに早いことか。

そんな2005年に、なぜ李玖殿下は日本で、それも赤坂で死なねばならなかったのか。

死んだ事にされたのか、そもそもそんな人間は居ないのか、皇室については本当に常識が通用しない真相があるのでなんとも言えないのですが、もしも呪詛に用いられ未だに浮かばれない高貴な魂あれば、それを救うのがかつて世を滅ぼした者たちの使命と信じ精進していく次第です。

ともあれ、李玖殿下の冥福と真の日韓友好を祈念し、次回に続きたいと思います。

暑く寝苦しい夜が続きますが、あと少しの辛抱です。

 

 

シリーズ次回は李王家と伊豆半島を予定しております。