三遠南信Part2

 

 

三河遠州こそが伽耶だった!?!?

 

伽耶という国に馴染みが無い方のために整理しますと

 

私たちが歴史の授業でも習ったように、日本が古墳時代大和時代だった頃、おとなり朝鮮半島は三国に分かれていた。

百済高句麗新羅の三国の影に隠れ、伽耶or加羅(日本名:任那)と呼ばれる連合国が存在し、最近の発掘成果や歴史認識の見直しから、朝鮮三国時代を朝鮮四国時代と改めるべきという声が唱えられるほど。

 

カヤグムのカヤもここから来ております

そんな伽耶の代名詞といえば鉄であり、現在も鉄鉱石の採れる鉱山を従える伽耶地域は鉄製品が山のように出土する地域。

アラガヤに比定される咸安の博物館には都合二度も訪れたことがあり、直後に大阪堺の博物館で見た馬鎧はアラガヤのそれと全く同じやん!!という印象を受けました。

 

国際空港も置かれている金海も名前からし金官伽耶伽耶連盟前期の盟主)があった場所だろうとされ、伽耶6国の王達が降臨したクジボン龜旨峰の山こそがクシフル岳では無いかと日韓の歴史研究家にもよく言われているところ。

 

しかして国際空港を従える釜山は今でこそ韓国第二の都市であり貨物船の寄港地としても日本を抜いてアジアのハブにならんとするほどの成長を見せていますが、かつては漁村しかない寒村でありました。

江戸幕府倭館(ウェグワン)と呼ばれる大使館に相当する10万坪もの施設を設置したのが1678年。現在は山上に釜山タワーが建てられ、ナンポドンやチャガルチ市場は観光客がひきもきらないエリア。古書店街もあり、韓国軍年鑑を探しに奔走したのも懐かしい。

上記の写真は海抜20m以下を白塗りにしたもので、古代の海岸線の想定図。マッドフラッドなのかなんだかわからないが、地球規模のなんらかの変動が起きて現在の海水面は5から場所によっては20メートル以上上昇したと私は見ている。そうでないと説明できない事が考古学的にも歴史的に多い。そうすると見事にアラガヤは内海に広がる豊かな海上都市であった事が窺える。おそらく玉名盆地も古代はこうした内海が広がっていたのだろう。

そんな日本に厳然たる影響力を持った任那の入り口にして鉱山が豊富にあった洛東江と古代内海の守りの硬さをよそに、歴史の表舞台から忽然と消え、近代まで忘れ去られていた韓国南部の伽耶エリア。

古都と呼ばれる場所が往々にして打ち捨てられ、現在は誰も住まない所になることはままあるが、日本を間近に見つめる海沿いでそんな事があり得るのか??

その後の朝鮮史の中心は慶州や開城や、北方に政治的中心が置かれて久しい。またあれだけ揉めた倭との関係も、やれ契丹だモンゴルだ、外勢の脅威は常に北及び西に向けられ、時々倭寇が東、南海岸を荒らしたと歴史書に残るのみ。

 

そう、私は記紀百済本紀、魏志倭人伝等の歴史書の記述から当然のように比定されている伽耶=韓国南部という図式が、実は三河遠州だった!という可能性が40%ぐらいはあると割と真面目に思っています。

なにせ、伽耶=日本説というのは韓国の学者でも提唱しているケースがあるぐらい。神功皇后49年に皇后が遣わした荒田別と鹿我別が征服した多羅国は、韓国では無く佐賀の太良である!というのはかなりいいセン行っていると思います。なんせ鹿島市のすぐ南!

 

豊橋=鉄の街

 

伽耶三河遠州を裏付ける材料に、豊橋は高師小僧が有名な地。

高師小僧は葦の根元に鉄分が付着したもので、そもそも豊橋の高師原から名前をとっており、かつて豊橋市南部を埋め尽くしていた湿地帯にゴロゴロとあったそうです。

またビリーバンバンじゃないか。



そんな高師原台地と天伯原台地からなる渥美半島の根元付近。現在は国道23号が整備され海沿いエリアの交通が非常に便利になりましたが、走っていると大きな○○が目につきます。(実はここも銅鐸と密接に関わる場所ですが、ちょっとやばいのでメルマガにてお伝えします)

今でこそ便利になったとはいえ、かつては陸軍の大きな演習場が作られたりするほど誰も住んでいなかった場所に、〇〇を作って人を呼び、△△△△教の□□□まで作られると言うのは…

 

鉄鉱石が取れないとされる日本ですが、これだけ巨大な褐鉄鉱が湿地にゴロゴロ転がっているのを見て、これを何かに使えないだろうかと思うのが人情。

縄文土器は実は製鉄用の坩堝(るつぼ)だったのではないかという説があるぐらいで、現に発掘現場では縄文土器に鋳鉄がこびりついているものが発見されたと聞いております(当然表には出せないでしょう)。

更に言うと最新の発掘では吉野ヶ里よりも早く稲作が定住した地域は伊勢、それも鈴鹿周辺であるとか。

紀元前4世紀に鉄と青銅器が同時に渡来したとされる日本で、5世紀に鉄の国内製造が始まるまでの約1000年間、各地から出土する鉄製品や古墳の埋葬品は全て朝鮮や大陸から輸入された銑鉄から作られたという定説、これは逆に無理があるのでは??

神社の分布から見て海抜10メートル以下を透明にした豊橋。銅鐸エリアも近い(湖西市白須賀)



青銅の川、天龍

 

また青銅は国内製造が早く、前1世紀には銅と錫(スズ)の合金である青銅が作られたと言われています。

 

ここで錫が出てきましたが、錫の原子番号はなんと50。

スズで50。

そう、伊勢神宮を流れる五十鈴川

製鉄民を率いて入道ヶ岳の水銀利権を抑えた猿田彦一族の痕跡は鹿の椿大神社が今に伝える。

耐火断熱レンガ、るつぼといえばイソライト。

ひいては神武天皇の正妃である媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいそすずひめ)を想起せざるを得な

い。これが全て偶然だろうか??

 

金官伽耶を建てた金首露の妃はインド人

卑弥呼チャム人説

遠州袋井はベトナムとのコネクションもあれば、蒲郡はカボチャが初めて日本に流れ着いた伝承もある。

名も知らぬ 遠き島より 流れよる 椰子の実ひとつ。古代における東南アジア、ひいてはインド交易の最大拠点は三河遠州だったのではと私は考えています。

 

 

銅鐸に話を戻しますと、三遠周辺で見ると恵那、中津川で採取される錫。さらには浜松近く、ギリギリ長野と言う天竜川流域の神原も錫が取れたという。そこには飯田線小和田駅がすぐ近くにある。

小和田氏山形県西村山地域に多くお住みのようで、紅花が名物。なんの縁なのか寒河江で紅花の種を仕入れた事のある私も、家系のルーツに村山がある。

 

更に天竜川には秋葉山下社の目の前にかつて存在した峰の沢銅山(信州まで繋がっているという伝説)と、巨大銅鐸を作る上での材料は申し分ない。とにかくデカイ。この辺の銅鐸。

暗示するように浜松市天竜区にはオリハルコンの釜と呼ばれる淵があるらしい。古代ギリシャ語で“山の銅”と呼ばれるオリハルコン。日本では伝説上のヒヒイロカネがそれに当たるといわれていて、実際に山の専門家達はそれを独占し、今もその技術は限られた山師集団によって密かに利用されていると知人から聞いています。

 

武田の金山衆は金が取れる山は光って見えたと言いますが、実際に現代の山師も動物的な臭覚か第六感なのか、なんの変哲も無いように見える山に入ってはレアメタルと思しき物を掘り出し、特殊触媒用や特殊合金用に高く売ったり怪しい機材を自作しているそうです。基本的に世のためになることはしてないんですけど。

 

続く